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ヒトヒト通信のおわり

「え~~~、ヒトとヒトは2020年代の高性能通信端末(もちろん当時の基準で、です。スマホと呼ばれていました)の普及や通信速度の向上とともに、リアルタイムに常時通信しているのが当たり前になりました。しかし、それは今当たり前になったような『コミュニケーション』とは違い、一方的で押しつけがましく、お互いがお互いを傷つけ合うような低品質な『ディスコミュニケーション』が大半を占めていました(当時、よく話題になっていた『炎上』はその結露ともいえますね)。」

 

歴史の授業ではそう習ったけれど、オレはヒトカミ通信が当たり前になった今、どうして当時の人たちがお互いを傷つけ合ってばかりいたのか、理解できないでいた。今はヒトとヒトが直接話すなんて野蛮で物騒なことはしない。ヒトは特に親と子、兄と妹、上司と部下、先生と生徒、妻と夫など、感情に強く結びついている人間関係の中で、適切な通信ができないことが多い。何世代もくり返され続けてきたディスコミュニケーションによる悲劇の連鎖は、ヒトカミ通信の存在によって断たれたのだ。

 

ヒトカミ通信とは、ヒトとヒトの間にカミを通して行う通信のことだ。いきなりカミと言われてもよくわからないかもしれないが、ヒトはそれぞれカミをもっていて、カミはヒトの理想を体現した存在だ。ヒトとヒトが通信する際は、ヒトがカミと通信して、カミは相手のカミと通信して、相手のカミは相手のヒトと通信する。つまり、ヒトは見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない。それもカミを通して。

 

これは親と子の間でもそうだ。オレの国は国民のヒトカミ通信の権利を認めている。また、ヒトヒト通信はたとえ親子の関係であってさえ、犯罪行為とされている。21世紀はヒトヒト通信によるディスコミュニケーションの結果、親子の殺人事件さえ日常茶飯事だったようだ。まるで未開の原始時代の話かと思ってしまうが、それがほんの少し前の現実だったことには背筋が凍る。

 

つい最近まで、ヒトヒト通信しかできなかった野蛮人たちの物語は他人事だった。しかし、もうオレにはそう思えなくなってしまった。カミと話すことしか知らなかったオレに、好きなヒトができたのだ。

 

あの子のことを思うと胸が苦しく、できるだけ近くで見ていたいのに遠くからしか見ていられず、触れたいのに触れられず、声を聞きたいのに声よりもっと重く響く心音に邪魔をされ、オレがオレでなくなってしまったような心地がするのだ。

 

もちろんあの子とヒトヒト通信するのはダメだ。それはほんの少し前の原始人の仕草であり、人間性を無視したヒトに値しない愚かな行為だからだ。にもかかわらず、オレはあの子の声が聴きたい。カミの声じゃなく、あの子の。あの子と直接ヒトヒト通信がしたい。